2011年4月18日月曜日

いろいろ感じた事、考えた事。

 何のために人は生きるのか? よく聞くフレーズだけど、こんな事考える生き物は人間だけと断言できる。だから、答えは人それぞれでいいと思う。でも、地球上の生物の1種類としての答えはただ一つ、地球とともに共存する事。もしかしたら、地球の変化と共に滅ぶまで存在する事かな。今の世の中を見ると、その期間を縮める事しか人間はしていない。というか人間しかそんな事しない。
その代表が、環境汚染。パンドラの箱が開いて以来、欲望を満たすためにその卓越した知能で地球の支配者と成り得た人間の所業はここで書くまでも無いでしょう。何世紀経っても人間一人の生存期間は決まっているものだから、進歩も成長も昔の人と基本変わりなく、歴史は形を変えて繰り返すだけ。結局内容は一緒。進歩無し。ただし程度がどんどん悪くなる。もし変えられるとしたら欲望にリミッターを持った人たちが世の中で尊ばれ、各分野ごとに配置され、裾野までリミッターが行き渡る世界になるしかないが、「文化だ、文明の進歩だ、技術革新だ、自由競争は無限だ、強者生存が自然だから優秀な人は裕福であたりまえで、そういった人が集まり権力を持ち世の中を自分に都合いい様に誘導するのは当然の成り行きだ。」と思っている人間、または、いつの間にかそういった立場になってしまい、引き返す勇気の持てない人たちが世の中を引っ張る間は、大きな流れとしては変化しないでしょう。
地球の表面(陸地)は、これから将来も地球が消滅するその日まで移動変化し続ける。つまり地震は未来永劫断続的に繰り返される。そんな事誰でも知っているのに壊れたら手が付けられない物造るのに、今回起きた原発が回復困難になった原因を既に指摘されていたのに「想定外で考えられない。」と過去に断言していたり。危険性に関して、「可能性があるものを全部組み合わせていったら、モノなんて造れない。どこかで割り切るんです。」なんて事を、中部電力浜岡原発の運転差し止め訴訟で、中部電力側の証人として、現 原子力安全委員長が証言していたりする。果たしてこんなんでいいの?ただの技術屋の驕りでしょ! 
壊れない物を造る事は出来なくても、せめて壊れたときに責任もって停止、制御出来て。想定外の事態でも将来に渡って環境破壊しない事が後世に誓え、胸を張って正の遺産と言える事が確実なら造っていいし、それが現在我々の本当に身の丈に合った文明と言えるのではないでしょうか。
造りたい欲求の持ち主と、造らせてそこから利益を得たい欲求の持ち主が力を合わせる。正しく裁けもしない事を無理に裁いて失敗しても責任とらなくてよい制度を法治国家という制度。みんなそれぞれ小さい世界観で物事考えるから、リミッター作動しないから、パンドラの箱は開きっぱなし。上記に当てはまる日本のことわざ「過ぎたるは及ばざるが如し」「驕れる者久しからずや」。みんな知らない分けないよね。昔の人もこんな戒めをいっていたんだから、今と変わらなかったんだろうね。という事はやはり進歩してねーじゃん!「温故知新」年は食うもんじゃなくて、重ねるものらしい。それには過去を学ばないと繰り返し過ちを犯しちゃう、教育は進歩に欠かせない要素という訳で、教育の予算削るのは国家衰退の序曲、馬鹿の証明だったりする。科学はすばらしい、でも操られてはならない、アクセルとブレーキは必ず同等でなければならない。すばらしい能力で次世代エネルギーが誕生させられれば、危険な原発から脱却できる日が必ず来る。きっとこれからの真の科学者は、それを創造する事から始まるに違いない。その時のためにも生きれる環境を残さないと。それが今の時代に生きる我々の出来る事じゃないかな。